無気力脱出日記

ギターと読書が趣味

ゲームを一度も買わずに育った自分がSEKIROでゲームを始めてからPS4を売るまでの話

「お前ポケモンやったことないだろ?」

という、ゲーム下手に対する煽りがあるらしい。

逆に言うと、それが煽りとしての意味を持つくらい、ポケモンは日本人なら皆、やったことがあって当たり前のゲームということだ。しかし私は違う。

ニンテンドーがゲームの黎明期〜黄金期の歴史を作っていたまさにその時代をリアルタイムで生きていた私は、本当にポケモンをやったことがない。

プロローグ

 現在興行収入第一位をかっ飛ばしている劇場版鬼滅の刃だが、あまりにも売れすぎたせいか原作やアニメ版の続きであることを知らずに観る人も一定数いるらしい。

そういう人たちの初見でのコメントは結構面白く、原作を知っている立場からすると突拍子もなく感じるコメントもちらほらあった。

原作やアニメを知っている人からすればただの笑い話だが、ことゲームに関していうと私は全くこういう人たちを笑える立場にない。

それこそ伊之助が初めて鉄道を見て「なんだこの生き物!!!」と興奮していたように、自分はここ一、二年を除けば、ゲームに関してはほとんど全くと言っていいほど無知だった。

本当にゲームやったことなかったの?全く?

自分で買った事がなかっただけで、正確にはちゃんとやったことがあるタイトルが2つある。

一つはゲームボーイカラーが発売された時に、友達がいらなくなって貸してくれたゲームボーイのチャルボ55。

もう一つは別の友達が貸してくれたPSP三國無双である。

コンシューマーは本当にこの二つのみ。他のゲームの知識は全て又聞きか、実況動画からのみ仕入れた知識である。

ちなみにチャルボ55を知っている人を私は人生で一度も見た事がない(貸してくれた友達は除く)。10代の時全クリした唯一のゲームなので思い出深いのだが…

なんでゲームやったことないの?

親が厳しくてやらせてくれなかったから、と言いたいところだが、これだけでは実は案外言い訳にならない。

というのも、大学に入ってみてわかったことなのだが、意外と似たような境遇の人は多かった。

しかし、彼ら彼女らにゲーム歴を聞いてみると、案外常識的な範囲でのゲーム歴があることに気づく。

そこで気になってさらに詳しく話を聞いてみたところ、

「ゲーム禁止されてたけど、流石にあり得ないと思って勝手にポケモン買ったら特に何も言われなかった」

「高校受験でいいとこ行けたから高校時代にゲームやりまくった」

などなど、10代を全くゲームに触ることすらなく過ごした人というのは結局ほとんど見たことがない。

ではかく言う私は10代の頃何をやっていたかというと、とにかく音楽に夢中でギターのことしか考えていなかった。

ゲーム自体は高校に入った時点で許されていたが、当時はバイトをしているわけでもなく、少ないお小遣いは全部ギターグッズに使いたかった。加えて、進学校だったこともあってかクラスメイトとの付き合いが非常にドライで、ゲームの話なんてクラスでほとんどしなかったので、ゲーム経験がなくても特に困らなかった。

結局、マンガとゲームがクラスメイトとの話題の中心になる時期は既に終わっていたのだ。それでも話題に登るような有名タイトルは実況動画で知識を仕入れればどうにかなってしまったこともあり、ゲームにもマンガにもあまり興味がないまま、10年以上の歳月が流れた。

「え、セーブデータは?」

そんな自分に突如、人生の冬が訪れた。

その冬は春の顔をしてやってきたが、実際には冬であった。

仕事にも趣味にも挫折し、さらにコロナ禍の流行を2年後に控えていることなど知る由も無かった2018年の前半、ある日のこと。

当時はまだ知り合ってさほど日が経っていなかた友達に、お前もゲームをやらないか、と誘いを受ける。

私の心は煉獄杏寿郎のように熱く燃えてはいなかったので、やらない、とは言えなかった。どうせ暇だしいいかも、と思いPS4を買ってみることにした。

子供の頃はゲームといえばとんでもない高級品に感じたものだが、社会人になり10万円以上するギターやオーディオをそれなりの頻度で買っていた自分にとって、死ぬほど遊べるのに2万円弱という値段はかなりインパクトがあった。

「ゲームはコスパの良い趣味だから節約にもなる」と友達は言った。PS5発売が2年後に控えていることなど当時の自分は知る由もなかったが、名前を聞いたことがあるPS2より2グレードも上がっているから、多分すごいんだろうと思ったのを覚えている。

PS4でどんなソフトが遊べるのかすら当時の自分は知らなかったため、近いうちにその友達のおすすめの ソフト タイトルであるNier:Automataを借りる約束をした。ブルーレイディスクの箱に似ているな、と思いながら円盤を見た俺は彼にこう質問した。「え、でもこれもうお前がやったんでしょ?セーブデータは?」

それを聞いた彼は一瞬、カンブリア紀頃のご先祖様にに思いを馳せるような顔をした後、

現代では円盤にセーブデータを保存しているわけではないこと、そもそも円盤よりもダウンロード版が主流であることを教えてくれた。セーブスロットという概念は俺が子供の時にはあったはずだが、ゲーム機自体買っていないのだから知る由もない。

それから、R1,R2,L1,L2ボタンの存在も教えてくれた。かつて小学校で同級生から借りた中古のゲームボーイ(カラーでもアドバンスでもない)にはついていなかったボタンだ。

新しい出逢いにいろいろと感動していたその頃、同世代の友人は皆、仕事や学業に忙しく、ゲームの話をする人などもうほとんどいなかった。

30代の足音が少しずつ近づいてきていた、26歳の時の出来事である。

フロムソフトウェアが世界で最高のゲーム会社

 私がPS4を買った当時の彼の口癖である。この発言を聞いた他の友達が大抵ゲラゲラ笑い出すのは一旦無視することにした。

どのタイトルから始めるかPS4の知識のない私にはわからなかったので(ニーアは確かまだその友達がプレイし終わっていなかった)、とりあえずその友達が当時ハマっていたSEKIROを買うことにした。

それを見た友達は「お前にはまだ早い」とドン引きしていたが、友達と同じゲームをやって盛り上がるという経験をしたかったので、難易度は正直どうでも良かった。

さて、読者諸氏はそんな難しいゲーム本当にやったのか?と思うかもしれないが、やった。

なぜなら最初のゲームだったので、それがいかに難しいのかピンと来なかったからだ。

死にゲーと呼ばれるフロムである、当然数え切れないほど死んだが、最近のゲームというのはこういうものなんだろう、くらいに当時は思っていた。むろん誤解である。

結果的に梟の親爺戦まで進むことができた私は、ふとこう思った。

「ここまでエネルギー使うならTOEICの勉強したいな…」

ボス戦のたびにYouTubeの攻略動画を何度も見て敵の動きを覚え、攻略法を実践しては復習する…このプロセスはまさに勉強そのものだ。が、それなら英語できるようになりたいかな…と思ったのだった。

こうして私はSEKIROをやめた。そしてゲームが趣味というのは、言うなれば英語が喋れるみたいな特殊スキルで、かなりすごいことなんだなと思った。これも誤解である。

一番好きなゲーム

それから間もなく、友人からNier: Automataを借りた。

結論から言うと実質的にこれが自分にとって初めてのちゃんとしたゲーム体験になった。

サブクエストが豊富なこのゲームで、サブクエストというものの存在を初めて知り、物語を進め、世界観にどっぷり浸かり、結果的に5周(A〜Eエンドまでを1周とした場合)くらいした。トロコンは当然したし、後半になるとやることがなくなってしまい、字幕と音声を全部英語にしてシナリオを全部読むという正気の沙汰ではないプレイをしたりもした。

こんなに一つの作品をやり込むのは後にも先にもおそらくこの作品だけだと思う。故にこのゲームは、今でも自分にとって大切な作品になっている。

その後もいろんな名作タイトルを漁る日々が続いた。また、どうせやるなら英語の勉強も兼ねたいと思うようになり、しばらくは洋ゲー洋ゲーっぽい戦闘モノを漁った。とりあえずいろんなジャンルのゲームを一通りやろうとも思った。Ace Combat5、GTA5、Detroit: Become Human、フリプのUncharted4は通しでやった。立派なゲーマー(?)の誕生である。

コロナ禍で起こったFPSブーム

 そうこうしているうちに、コロナ禍の時代に突入する。

イタリアの市長が「家でプレイステーションをしてろ!」という名言を発したのは記憶に新しい。これにより、人生で初めて友達と、オンラインで、同じゲームをするという体験をする事ができた

え、モンハン?ポケモンすらやったことのない人間を舐めてはいけない。私がクロスプレイという言葉を知ってから、まだ1年も経っていない(多分)。

そんな自分にも世間のブームは容赦無くやってきた。オンラインマルチFPSの大流行である。

正直あっち方面は難易度高そう…というイメージしかなく、自分がやる日が来るとは思っても見なかったのだが、友達の多くに誘われれば断る方が難しい。

そんなわけでやってみたらやっぱり難しい。それもボス相手に必死に抵抗するとかではなくどこにいるかもわからない他人に瞬殺される

これは勉強がいるぞ、と思い必死になって調べた。

決め打ち、凸砂…用語はいろいろ出てくるが、実際はリロードのタイミングすら身につくのに3ヶ月以上かかった。FPSの難しさは体験したことがある人なら誰しもピンとくると思うので、詳細はここでは割愛する。

なんのためにゲームをやるのか

半年もしてくると、それなりに戦えるようにはなってくるのだが、ご存知オンラインゲームというのは上を見ればキリがない世界であり、膨大な時間を捧げた者にのみ栄光が与えられる世界だ。

それなりにゲーム経験がある人間でも絶望するような世界である。

ゲーム歴すらろくにない自分は上位層の厚さと彼らの動きの良さに心底うんざりしていた。友達と同じゲームで盛り上がる体験にもすっかり慣れ、むしろコロナ禍のせいで朝から晩までずっと誰かとゲームをやりながらオンライン通話し、プライバシーなど風呂とトイレ以外になかったような状況で、いい加減ひとりになりたいと思うようになってきた。

この頃、自分は一つ重大なことに気付いた。ゲームってそもそもなんのためにやるもんだっけ?

自分の場合、ゲームをやる目的は当初ゲームをろくにやった事がないという劣等感の解消のためだった。

加えて高スキル=偉いというゲーマー界隈の風潮を真に受けて、ゲームは上手くならなければ意味がないとすら思っていた。そもそもゲームへの入りがフロム信者からだったこともあり、今考えればこうなるのもまあ無理はなかったのかもしれない。

しかし他の人は違う。ゲームは楽しむためにやるものであり、暇つぶしである。

暇つぶしのためにゲームをやり続けた結果としてゲームが上手くなってしまい、既存のゲームに飽きた人間がより楽しい暇つぶしのためにフロムゲーやFPSをやるのだ。

しかし最初からそこを見て育った自分は、そここそが到達すべき高みだと勝手に勘違いしていた。

これは誤解だった。ゲームに高みなど最初から存在せず、最初から最後まで単なる遊びである。

これに気付いた時、既にゲームというものを知らないという劣等感はなくなっており、目的を失った私は完全に心が折れた。以降ゲームを触る時間は激減してしまい、結局PS4はPS5が市場に放たれて値崩れしないうちにメルカリで売ることにした。

発送手続きを終えたのは2020年の大晦日。こうして、ゲームと私とのこじれた関係は、2020年に一度、幕を閉じたのであった。

ゲームを”遊ぶ”という体験

今までの自分はゲームを”遊んだ”というより”勉強した”と言う方が適切だったように思う。

慣れないものの習得には最初は勉強が必要、というのは普遍的な真理だが、ゲームというのは慣れないうちから楽しく遊べるように設計されており、これこそがある意味ゲームの本質であると言える。

言ってしまえば、必死に努力してゲームが上手くなるというのは、心の底からゲームが好きな人を除けばわざわざゲームでやる必要はないのだ。

英会話もプログラミングも、最初は必死に努力して、ある程度身につけた段階でやっと面白くなる。逆に言えば、その未来を信じて努力しきれなかった多くの人は挫折する。世の中の趣味や仕事というのは大抵そういうものだ。

しかしゲームは違う。ゲームは最初から面白い。そもそもそうしないと売れないからそう設計されているし、他の多くのエンタメ作品と同様、そうでないといけない物だ。だからこそ市民権を得ている。

それをよりによって死に物狂いで無理して勉強してしまったというのは、随分損なことをしたな、というのが今の私の正直な感想である。

 

これからは、ゲームを”遊ぶ”体験をしたいと思っている。

現実は大抵過酷だ。どんなスキルも全然身につかないし、身につくまでに人の言うことを必死に聞かなければいけないし、何より楽しくない(特に最初は)。

そうこうしているうちに人は、自分の人生をコントロールできている、という感覚を失っていく。そんな時の最後の砦がゲームなのではないだろうか。

ゲームは、タイトルさえ適切に選べばあなたの努力にちゃんと寄り添ってくれる。逆に言えば、あなたはあなたの努力を肯定してくれる(少なくともそのゲームの中では)ようなゲームを選ばなければいけない、という事でもある。

それこそが、ゲームの正しい遊び方なのかもしれない。

PS4を売ってしまった今コンシューマーゲームは一切持っていないが、そう遠くないうちにNintendo Switchを買おうと思っている。

プレイ予定のタイトルは、マリオとゼルダのブレスオブザワイルド。どちらも日本語で。小学生でもできるタイトルだが、今の自分には必要な”遊び”のような気がしている。

 

余談だが、私にゲームをお勧めしてきたその友達はまさか私がSEKIROをやるとは思っておらず、やるならせめてカービィ64をクリアしてからにしろと言っていたので、彼のアドバイスは正しかったということが2年越しに証明される形となった。

エピローグ

人間は文化的な生き物だ。20代なら誰でも身についていて当たり前のように思われる常識も、どこかのタイミングで皆が文化として身につけたタイミングがあったはずだ。

今日も世間にはいろんな常識や偏見があるが、そのほとんどが立場が違えばひっくり返るようなものだ。特に海外の文化に触れる機会が多い人は、それを痛感することが多いだろう。

今私はこの記事を書きながらTaylor Swiftを聞いているが、Taylor Swiftといえばアメリカでは10代の女の子が聞く音楽である。なぜそれを20代も後半の男が聞いているのかといえば、私が日本人であり、アメリカの常識を身につけていないからだ。つまりアメリカ文化の中でのTaylor Swiftを”通っていない”のだ。

3年後には、おそらく外国人と話す時にはTaylor Swiftのことを「あれはティーンエイジャーの音楽だろう」と談笑していると思う。しかしだからと言って、今Taylor Swiftを聞く体験が無になったわけではない。Taylor Swiftないしアメリカのポップカルチャーを通ったのだ。

多くの日本人にとって、ゲームではおそらくNintendoが近い位置に当たるだろう。今私の周りにNintendoのゲームをやりこんでいる人はほとんどいないが、今PS5を予約したりFPS廃人になっている奴も、かつてどこかでNintendoのゲームを通っているはずだ。その体験を自分もできたらいいなと思っている。

まあ先述の通りカービィ64をやれと言った友達を無視してPS4をやったのは自分なので、これでやっと「友達と同じゲームをワイワイやる」という文化を通ったことになる。

しかし、純粋なゲーム体験という意味ではまだ通っていないゲーム文化がたくさんあると思う。

中でも純粋にゲームを楽しむ、という体験は、すでにたくさんできたもののまだまだ通り足りていない。やっと自分でどういうゲームが好きか、なんとなくピンとくるようになったので、自分でゲームを選び、楽しむという体験を積み重ねていきたい。

そして3年後くらいには「Nintendoはティーンエイジャーのゲームだろう」と談笑しているかもしれない。その頃には、「世の中何やっても上手くいかねぇなー」と文句を言いながら、今難しくて挫折したゲームをPS5でもう一度、やり直せればいいなと思っている。